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国語が得意になる文章の読み方(第15回)

『虔十公園林』の第15回目です。

 

 今回は、作者が話を面白くするために張っていた伏線が明らかにされます。どんな伏線があったかを思い出しながら読んでみてください。

 

《本文》

 ところが次の日虔十は納屋で虫喰い大豆(まめ)を拾っていましたら林の方でそれはそれは大さわぎが聞こえました。

 あっちでもこっちでも号令をかける声ラッパのまね、足ぶみの音それからまるでそこら中の鳥も飛びあがるようなどっと起こるわらい声、虔十はびっくりしてそっちへ行って見ました。

 すると愕(おどろ)いたことは学校帰りの子供らが五十人も集まって一列になって歩調をそろえてその杉の木の間を行進しているのでした。

 全く杉の列はどこを通っても並木道のようでした。それに青い服を着たような杉の木の方も列を組んであるいているように見えるのですから子供らのよろこび加減といったらとってもありません、みんな顔をまっ赤にしてもずのように叫んで杉の列の間を歩いているのでした。

 その杉の列には、東京街道ロシヤ街道それから西洋街道というようにずんずん名前がついて行きました。

 虔十もよろこんで杉のこっちにかくれながら口を大きくあいてはあはあ笑いました。

 

〈解説〉

 「杉の列はどこを通っても並木道のようでした」という文から思い出してほしい表現があります。ちょっと考えてみてください。

 

 「どこを通っても並木道のよう」と書いてあるのですから、通りがいくつもあることがわかりますよね。通りがいくつもあるということは、杉の木の列がいくつもあるということですね。ところで「並木」を『新明解国語辞典』で引くと、こう書いてあります。「幹線道路に沿って規則的に間隔を置いて植えてある木。」いかがでしょうか。これで、この杉林の間隔がそろっているかがわかりましたね。

 ここまでくると思い出せますでしょうか。

 虔十が木を植えている場面に「実にまっすぐに実に間隔正しくそれを掘ったのでした」と書かれていましたね。

 あの表現は、虔十の几帳面さを表すだけでなく、子供たちが集まってくるための伏線になっていたのです。

 

 さらに、子供たちが集まって行進しやすい杉林にするための伏線が他にもあることに気づけますか。

 ちょっと考えてみてください。

 

 では、解説です。まだ考えたい人は、一旦読むのをやめてくださいね。

 

 さて、虔十の杉林に子供達が集まったのは「次の日」ですね。前日の出来事は、覚えていますか? もし忘れていたらこちらをご覧ください。

 https://tanoshiijuken.hatenablog.com/entry/2021/02/08/182317

 

 虔十は杉林の枝打ちをしたのです。下の方の枝を落としたので、子供達が行進しやすくなったのです。しかも、この杉林はそれほど高いものではありません。杉の上の方に残った枝に生えている葉っぱの緑が「青い服を着た」ように見えているのですね。

 

 では、子供たちが集まる場所としての伏線を整理します。

1)虔十が間隔正しく植えたこと。

→どこを通っても並木道のようになった。

2)野原は下が粘土で杉が育ちにくい場所だった

→丈が九尺ぐらいまでしか育たなかった。

→枝打ちの結果、青い服を着た杉の木も列を組んでいるように見えた。

3)ひとりの百姓が冗談で虔十に枝打ちをしないのかと言った。

→行進しやすい場所になった。

 

 いかがでしたか。

 作者の意図を考えると小説がより面白くなりますよ。

 今回の学びを活かして、自由に考えてみてください。